そして1979年東高校、農業高校の卒業生を中心に勤労青少年ホーム内のサークル活動として、深川最初の市民吹奏楽団「深川吹奏楽サークル」が結成しました。当時は楽器を借りる当てなどなく、全て個人持ち、打楽器は揃えられなかったものの、チューバは団長名義の分割払いの共同購入とし、一通りの編成とすることができました。ただ、その後プロのピアニストとして歩み始めた真保響さん及び深川ライオンズより初リサイタルの収益の社会還元として打楽器の寄贈を受けることができました。このように市内の各所で演奏活動はしていたものの、自主コンサートを開催するまでは至りませんでした。ただし、中学や高校の吹奏楽部、一般音楽団体に呼びかけ、市内音楽団体が一堂に会する演奏会として1980年「深川市民音楽祭」を打楽器寄贈が縁で真保響さんの協力をいただきながら企画し、深川市民会館にて開催して行きました。この演奏会では吹奏楽の合同演奏も行い、そのために2ヶ月ほど合同練習も行っていました。(なお、2008年から舞台芸術交流協会が開催した「ふかがわ市民音楽祭」とは関連はありません)
 市民音楽祭の初回は、全ての吹奏楽団体、市内で古くから活動していた弦楽合奏団の「深川室内楽研究会」そしてピアノが入り、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番の一部を演奏するなど、市民会館ステージに出演者が溢れんばかりの壮大な内容になっていました。その後は吹奏楽を中心に開催、あまり交流が少なかった各学校の吹奏楽部員、社会人の交流の場となりました。編成規模やレベルが違うそれぞれが、この演奏会の時以外の普段でも練習で行き来し情報交換が盛んに行われることになった訳です。その事はその後の市内の学校中心の吹奏楽交歓演奏会の元となる演奏会にもなりましたし、そのような中から吹奏楽部の無かった西高校にて設立の機運が高まり、開校50年の記念行事による楽器購入の予算が付いたことで1985年西高吹奏楽局が設立されるます。その後小ホールの生きがい文化センターのオープンなどから、市民音楽祭は吹奏楽から一般団体中心の内容に変化して行き1996年まで17年間継続しました。なお吹奏楽サークルは設立5年後より徐々にメンバーが減少、市民音楽祭運営の中心ではありましたが、自然消滅することになります。高校の吹奏楽は東高から西高中心に変化します。